2007年05月18日

豪雨の前兆 53

黒崎@豪雨の前兆 53
「世界の方が動いている」


Wikipediaの2006年12月28日板より「松永英明 活動の内容」を引用する。
この日付を選んだのは「ノート:松永英明」における、Nonki 2007年2月19日 氏の発言に準拠してみた。内容の正確さは保障の限りではない。
「松永英明氏本人の書き込み状況から見て、2006年12月28日 (木) 19:15の版に記載ある程度の内容については問題視していないと思われます」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E8%8B%B1%E6%98%8E

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http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E8%8B%B1%E6%98%8E&diff=10349776&oldid=9715675
「活動の概要
○河上イチロー
河上イチローは、当初名乗っていた河上一郎に対して、他のサイト管理人がイチローと表記したものをそのまま採用してペンネームとしたものである。総合情報サイト「Der Angriff」の管理人として著名だった。

日本における1990年代後半のインターネットは、多くの個人向け商用インターネットサービスプロバイダが生まれたにもかかわらず、2006年現在の状況と比べれば、インターネットを利用する個人ユーザは社会のごく一部、という状況であった。こうした状況で、当時の個人サイトの流行のひとつが、アンダーグラウンドな内容を扱うというものであった。
当初は、市民運動的な趣で破防法反対サイトを立ち上げていた河上であったが、扱う話題を付設の電子掲示板での話題にあわせて軍事・諜報関連やネットの規制問題や、マスメディア批判の内容へと拡大していくにつれ、こうした流行に乗ってアングラ的表現を強めたサイトへと変化させていった。それが、ヨーゼフ・ゲッベルスが創刊したナチス機関誌Der Angriffの名前をそのまま借りたDer Angriffへのサイト名変更へとつながった。このとき、それまで複数あってそれぞれ異なる名前がついていたサイトを、Der Angriff のブランドのもとに集めた。これは、「マスコミで扱えない情報を扱う」サイトに、ドイツでは違法とされ日本では合法ではあるものの「不謹慎ネタ」として騒がれる親ナチスの名前をつける、というブランディングであったと言える。これは成功し、Der Angriffはアングラ色を醸し出しつつ有名サイトとなった。

こうして有名サイト管理人として著名となったのち、河上は「サイバースペースからの挑戦状」と「サイバースペースからの攻撃」の2冊の書籍を執筆した。このタイトルでわかるように、サイバースペースは、当時は実社会とは別のもの、と認識されていた。そして、その内容は、実際にはサイトで扱っていたようなアングラな内容それ自体が主体というわけではなく、多くのネット上で有名な個人サイト開設者や、あるいは実社会的に有名でネットも積極的に使っていた人物との対談と、ネット上での情報収集・発信のハウツーを記した、ネットの魅力を語るものとなっていた。

こうした動きにあわせ、河上はNシステム全国マップサイトや紀宮清子ファンサイトを作ってマスメディアに注目をされるようになっていった。また、自著で対談相手となった宮崎学とは、宮崎の対談連載に河上が登場して後に単行本に収められるなど、継続的な関係を築いていた。

ところが、一転して2000年に入ってからの河上の活動は不活発なものとなり、9月にサイトの譲渡を多くの常連に対して提案して作業を始めた。個人サイトの管理者が情熱を失ってサイトをやめる、ということは特に珍しくもないことであり、また、当時の Der Angriff は情報の集積や掲示板でのコミュニケーションから河上個人サイトという以上のものになっていたことから、提案を受けた人々もとくに不審に思うことなく作業にかかわった。

そして、2000年10月に河上はサイト引き継ぎのためにコーナーごとに順次閲覧停止にしていったが、それを受けて実はオウム真理教の現役信者である、ということを暴露され、やむなく急遽サイトすべてを閉鎖するという形で河上イチローの活動は終焉した。そして、河上が創刊時から関与し常連寄稿者となっていたサイバッチから独占インタビューが公表された。このなかで河上は、2000年に入って教団に復帰したことやその経緯、オウム真理教ダミー企業の一つであると報道されていたなあぷるが自らの仕事の場であり、そして話題となっていた「週刊光源氏」を企画したことなど、それまで明らかになっていなかった事柄について本人の立場から明らかにした。このインタビューで河上は、2000年の教団復帰までは教団からは離脱しており、また、なあぷるは教団を離脱した元信者とそれ以外の教団と無関係な社員で構成されていたもので教団のダミー企業ではないとしている。

しかしながら、Der Angriff の主要コンテンツのひとつにオウム真理教情報サイトがありそのなかで滝本太郎弁護士を批判・攻撃していたことや、河上が教団離脱前に執筆していた機関誌『ヴァジラヤーナ・サッチャ』に反ユダヤ主義的陰謀論に基づく特集記事があり、Der Angriffという名称が由来からして親ナチスすなわち反ユダヤ主義の要素を含んでいたこと、そして、なあぷるで仕事をしていたこと及びなあぷるのダミー疑惑が河上の説明だけでは払拭されないものだったことなどから、河上イチローとしての活動と教団の関係を疑う声が滝本弁護士や、有田芳生などオウム問題に取り組むジャーナリストから上がることにもなった。

○アーレフ時代
オウム真理教改めアーレフに復帰したのち、教団方針で実名でサイト「半跏思惟」を開設し、のちに閉鎖した。その内容は教団方針に則るものであって、特筆すべき内容はなかったが、「世界がもし100人の村だったら」への批判的な議論や「奇跡の詩人」問題における独自の観点からの言及を行うなど、前後の時期と共通した要素も見られた。アーレフでは上祐史浩代表の書籍を刊行する東山出版の社長を務めた。

○松永英明
2003年、松永英明として文筆業を開始、サイトも開設してブロガーとなった。このとき、過去の活動は全て伏せていた。

河上名義の活動の時期とは異なり、この時点ですでに日本におけるインターネットの普及率は十分に高く、すでに個人サイトにおいてもインターネットとアンダーグラウンドを結びつけるカルチャーも主流とはいえないものとなっていた。アングラサイトを作っても有名になれない時代となっていたのである。こうした中で、松永は新しい名前でサイトを始めたが、たまたまブログツールを採用したところ、それがブログ流行の少し前のタイミングであったため、ブロガーとして認知されるようになる。その後、ブログ記事において、また執筆活動を通じて、多くのブログ入門記事を書いて日本におけるブログ普及に貢献していくことになった。

こうしてブログを中心としたCGMが社会的な存在感を増していき、松永もブログ関連書籍の著者として著名になっていくなか、2005年の耐震偽装問題をきっかけに、きっこの日記が有名となり、その正体探しがマスメディアとネット上の双方で流行した。松永もこれに参加したが、そのためにDer Angriffの常連でもあり、サイバッチ関連でのつながりもあった野田敬生の注目を集めることとなり、最終的に2006年3月に過去を週刊誌で暴露され、自らも教団との関係については認めるという事態に至った。これは、松永がその名義の活動ではまったく関係させていなかったものの、アーレフからの脱会(の開始)が2006年2月と遅く、松永名義とアーレフ所属の事実が並行していた時期が長かったこと、そして、アーレフ所属のまま、2005年10月の民主党のブロガー懇談会に出席していたことによる。ただし、同記事中、民主党との関係や、きっこ=松永説については事実に反する。

こうした経緯を経て、松永は河上イチロー時代に強硬に対立していた滝本太郎弁護士とも会って脱会についてのアドバイスを受け、正式な退会届の提出や東山出版社長の退任手続きを行い、2006年6月までにはアーレフ脱会を確実なものとした。これは、公安調査庁に提出される教団からの活動報告から完全に名前が削除されていることで公的に証明されている(この活動報告は、虚偽があれば教団の活動停止処分等につながる重大なものであり、信憑性は極めて高い)。また、公安調査官や公安警察官との接触も多い。しかしながら、インターネット上で「偽装脱会」疑惑を書き立てるという誹謗中傷・名誉毀損が恒常的になされている状態である。
なお、松永名義での執筆活動は、ブログ関連のほか、女子十二楽坊関連、成功哲学関連(訳書)がある」

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冗長な物語である。
ここで記載されていることの真偽はともかく。
注目していただきたいのは、その年号である。
90年代後半。2000年。2003年。
上記では「Der Angriff の主要コンテンツのひとつにオウム真理教情報サイトがあり」と書かれている。
つまりはクリッピング。
そこへゆけばその筋の情報は大まかに拾えるというものだった。
当時を知る方々は、いわゆるリンク集というものがどのサイトにも付いていたことを想起されるかもしれない。「yahoo Japan!」の検索はまだ人力で、多くのテーマ別サイト紹介ムック本があちこちから刊行されていた。
いわゆる「ネット・イエロー・ページ」である。

クリッピングとは情報処理能力である。四谷大塚的才能と言っても良いだろう。
そこに一定のセンスなり編集が加わって、読者を知らずに一定の方向に導いてゆく。
編集とはそういうものだから、それ自体が悪いことだとはあながち言いがたい。
問題はその方向であるが、それはまた別の話である。

が、しかし。
例えば「はてなブックマーク」などが開設され、それが機能し始めたのは何時頃からだったろう。yahoo ! のエンジンが替わり、例えばグーグルに関する新書が相次いで出されたのは何年頃からだったろうか。
一日中ネットに繋いでいることが普通になった。
システムそれ自体が自動でクリッピングなり編集をしてしまう。
勝手にTBも打たれ、自らが閉鎖したサイトそれ自体もアーカイブで読まれるご時勢。#
となると、どうなってゆくのか。

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http://kurosaki-yowa.seesaa.net/article/34086809.html
元サイトのエントリー自体、残っていることに注意。
posted by 黒崎 at 05:29 | TrackBack(0) | 夜話「豪雨の前兆」 | 更新情報をチェックする

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