立花隆さんに同名の書籍がある。朝日文庫。
いわゆるロッキード事件の捜査過程で行われた、アメリカ在住のコーチャン、クラッター、エリオットに対する嘱託尋問。その正当性を問う裁判批判に対する立花さん論駁の書である。1980年代。
若い読者はご存じないかも知れないが、これはいわゆる「田中金脈追求」の一環である。筆の力が時の総理を倒したという、ジャーナリズム史に残る連作と評されるもので、全てを読もうとすると暫く仕事はできません。
私は古本屋で買って、時々捲っては壊れかけたソファに横になっていた。
例えば「推定無罪論」というもののインチキさがある。
これは近くは元ライブドア・堀江被告逮捕の際にもっぱら援用された。
ガ島氏、佐々木氏、湯川氏などが目に付いたところではそうだったろうか。
劇場報道・国策捜査など、マスコミの過熱報道を主な理由として、結果的に堀江被告を擁護する。弾氏なども戯画的にそうであった。
端的に言えば、法的な概念と社会的なそれを履き違えているのである。
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「知的生活の方法」(渡辺昇一著)
という本が、私が若僧だった頃に流行った。
当時付き合っていた女がそれを愛読していたことを覚えている。
「知的」というところが泣かせた。
この渡辺氏が、ロッキード裁判は「暗黒裁判である」と文藝春秋上で主張してゆく。
始めは沈黙していた立花氏であるが、ある時を境に猛然と反駁を始める。
骨子は社会における法の精神と裁判の趣旨。そして事実認定である。
膨大な資料を元にした地道な作業でもあったのだが、断片を捉えるのではなく全体として把握してゆこうとする姿勢が、立花さんの傑出した部分だったろう。
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#これを近いところで分かりやすく言えば、例えば名誉毀損というもの、つまりは個人の「名誉権」というものが、何故ひとつの権利として認識され保護されるに至ったかという歴史的な認識の視座に繋がる。
言うまでもなくこれは、市民社会の成立を前提としている。近代的人権の確立ですね。
ここでも「私」というものと「公」というもののバランス、その差配が問題となってくる。市民社会を前提としなければ、そもそも「名誉」という概念は成り立たないのだった。
とすれば、時には社会正義を蛇蝎の如く否定し、時には自らの名誉を社会的に主張しようとする論の矛盾は明白にもなってゆく。
そも「名誉」とは社会的な概念なのである。
現在の立花さんには色々と批判もあることは承知だが、少なくともこの当時、あらあらここまで書くかしら、というような筆の勢いと腹の座り方はあった。そして、本質はそう変わってもいないのだなという気もしている。
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