2006年11月19日

「松永」という物語

黒崎@「松永」という物語


先の「オウムひとまとめ」に崎山氏からTBをいただいた。
http://d.hatena.ne.jp/sakichan/20061118/p1
一理ある考察である。
つまり、偽装であろうがなかろうが、「本人」(この場合には戸籍名を指す)は一度も脱会したことなどないのだという仮説が示唆されている。
離脱したのは表層のキャラである「河上」でしかないのだと。
いわんや、松永をや。

仮にそう考えた場合、人間の意識と社会的存在のあり方を結構な密度と角度から問い直す作業になってくる。パラダイムというか、こちらが通常想定している視座ではなかなか捉えきれない部分も出てくることに注意しなければなるまい。

―――――――――――――――――――――――――――――――――

ところで。
例のフラッシュ報道の後すぐに例の自分史が書き始められたことに、私は僅かながら引っかかるものを持っていた。
そんなにすぐに、自分の過去を相対化できるものだろうか。
何か別の意図、災いを転じてといったような比較的分かりやすい自己愛と計算。つまり世俗的な目論見があったのではなかろうか、といった類の想像である。

そして、今となってそれは幾許かは該当しているかのように思われる。
入院の間に書かれたもの、そして先日発表された自分史の内容と質については、多くの方が感じ、断片を漏らしている通りの感想を私も抱いた。
結核になった三文文士。
この設定すら何処か浮世離れしていて、評するに困難である。
何処までが真面目なのか、世間と自分をどう認識しているのかの判別が付かない。
もしかすると彼は「松永」という筆名の物語を賢明に綴っているに過ぎないのではないか。オウムというものを背景にして。そのような疑問が薄く浮かぶ。
それは原則的にフィクションあるいはファンタジーであって、つまり彼の描く幻の物語なのかも知れない。
主人公は筆名「松永」である。

―――――――――――――――――――――――――――――――――

「現実の中に幻想を見るのではなく、幻想を現実にしようとする」
例えばこうした志向・勢力というのは、歴史の中に繰り返し顕れてきた。
岩波新書に「ナチ・ドイツと言語」(宮田光雄著)という本があるが、そこでは以下のように記述されている。

「ナチ・ドイツの『第三帝国』は、ヴィマール共和国の政治的・経済的な失敗から生まれたというだけではない。むしろ、敗北と苦難の中から、ふたたび人々に名誉感情と自己意識とを回復してくれる『救済者』にたいする民衆的待望から生まれてきたのであった。そこでは『救済』は、古い腐敗した世界が没落し、腐敗をもたらした『悪い敵』が絶滅させられることによってのみ可能になる、と信じられた。このような危機は世界的であり、事を決する最終的な時は目前に迫っている、という漠然とした予感が広がっていった。
人々の待望した未来像には、ある種の擬似宗教的なイメージがまとわりついていたことは否定できない」(前掲:5頁)

エリック・フールゲンは1933年に「政治的宗教」の中で政治的メシアニズムの存在を指摘している。
ここからファシズム期の文学や芸術に話を流せば、「歪んだモダニスト」であったゲッベルズに話は移るのだが、彼もまた「なりそこねの文士」であり、実際に読むには耐えないファンタジー小説を綴っていたことが思い出される。

―――――――――――――――――――――――――――――――――
posted by 黒崎 at 16:03 | TrackBack(1) | 夜話 | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック

とんだ曲解
Excerpt: つまり、偽装であろうがなかろうが、「本人」(この場合には戸籍名を指す)は一度も脱会したことなどないのだという仮説が示唆されている。 「松永」という物語 これはとんだ曲解だ。私の述べた「主観」は、(前..
Weblog: 崎山伸夫のゴミ箱
Tracked: 2006-11-25 05:03
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。