表題敬称略。
さて、泉氏のところでは結構コメントを削除しているので、流れが掴みにくくなっている。読者にはテキストで保存しておくことを薦める。
私の印象であるが、この問題が出てから泉氏は一貫して松永氏をかばう言説を繰り返している。場合によってはume氏に対してよりも、肝心なところではそうであるかのような気配もある。
どこがどうだという指摘はしない。
あのふたつのインタビューも、大筋ではそうだったような気がしている。
滝本弁護士は「松永氏は麻原を観想していないから脱会している」と明言していたが、少なくとも私はそうは思っていない。
問題は松永氏が今現在現役の信者であるかどうか、これから脱会に向けてどうこうするということでもない。それは彼の人生だから、彼がきめるべきことだろう。端的に言えば、松永氏の精神世界やその後の仕事のあれこれなどに私は興味はない。
問題は、公的な部分である。
BB氏が言うように、
民主党ブロガー座談会への参加の経緯。
そして泉氏の報道機関設立プロジェクトに、当時オウムの現役信者だった松永氏が具体的にどう関与していたか、という事実が一番の問題だと考えている。
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だが、社会というのは面白いもので、グレーであるということが決定的な意味を持つことがある。
つまり法的な決着などは最後の手段であって、その前提として社会的評価という側面があることに注意しなければならないだろう。
その意味では既に本件、いいところまで片がついてしまっているのだと言える。
ちょっと具体的に書いてみよう。
例えば田中ロッキード事件の際、盛んに「無罪推定」ということが言われた。
近くではライブドア事件・堀江逮捕の際にも、アルファと呼ばれたブロガーの多くがこの論を援用して堀江被告を擁護していた。それは誤りな訳だが。
立花隆さんがこれについてこう書いている。
「無罪推定というのは、法律上の扱いに対する概念です。それと、社会的な規範の上で、ある人間が何か犯罪を犯したときに、その人間をどう扱うか、これは全く意味が違うんです。
たとえばそのへんの小学校の校長先生が汚職事件か何か起こした場合を考えるとわかりやすい。証拠は歴然と揃っているのに、いやもらっていない、いまも裁判で争っているということを言って、無罪推定だからおれはこの仕事を続けると言って、しかもその学校の職員の一部が校長先生を支持して辞めなくてもいいと言っているとしたら、これはPTAの人は皆怒るに違いない。
あるいは銀行の支店長が使い込みをやって裁判になり、まだ判決を貰っていないから自分は無罪推定だといっても、その人は確実にクビになる」
(立花隆著:「巨悪対言論」242頁:文芸春秋社)
そしてこの後にこうも続く。
「社会的に重要な公の機関の場合には特に厳しい規範を自発的に自らに課すものです。だから公務員の規範は厳しい。立法府がそれに劣らず厳しい規範を自律的に課すことを国民が期待するのは当然です」(前掲)
読者に注意して貰いたいのは、本件とはどこが違いどこが似通っているのかということである。
本件では訴追などはされていない。いまだ犯罪でもない。そこが決定的に違っている。
だが、政党との懇親会などという民主主義の根幹にも関わる事象であったこと。
そして、その勢いを借りて報道機関設立などの企画が立ち上がり、多くの企業・ジャーナリストがそれに巻き込まれていること。
要はネット上での言論の場、その組織体を構築しようとしていたところに特徴がある。
上記立花さんの発言で、公務員というところを、ジャーナリストと置き換えて考えてみると分かりやすいかも知れない。
つまり、ジャーナリストと名乗る人間に対しての、読者・国民からの職業意識・モラルの問いかけでもあるのだ。
それに対して十分に答えられなければ、社会的な評価というのは下落する。
一般にカルトと呼ばれる集団や、新・新宗教は多々ある。
が、そことオウムとの決定的な違いは、毒ガスを用い無差別テロを行ったという事実である。ヤマギシ会や法の華などとは性格を異にしている。幸福の科学などともまた違う。
3807人。
地下鉄サリン事件での死傷者の数である。
ひょっとするとこれは地域戦争に近い人数だともいえた。
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泉氏は一貫して巧妙に松永氏をかばう発言を繰り返してきた。
前にも書いたが、例えば「(現・元)オウム信者と社会との関わり」などというエントリーの設定の仕方は、問題を個人の次元に矮小化するものであり、巧妙な論点ずらしである。最終的には脱会と社会の受容が着地点になる。
夏祭りの寄り合いに信者が参加したというのなら、なんら問題はない。
様々な商売をしても一向に構わないと思う。
が、オウムの有力幹部・信者が、ネットワーカーの代表のような顔をして保守政党との懇親会に参加し、さらにその余勢をかって独自の報道機関を作ろうなどという企画に関与してもらってはネットワーカー・国民として困るのである。危険だと感じるのである。
もっと分かりやすく言えば、これが松永氏ではなく上祐氏が助力していたとしたら、果たしてどうだっただろう。
グレーであるということが決定的な意味を持つことがある。
そして、部分的には既に黒いものだと思われる。
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