2006年05月21日

ジフロ 2

黒崎@ジフロ 2

●地下鉄サリン事件、豊田被告の上申書にはこのように記載されている

ワークというのは各出家修行者に対して与えられる作業であり、同時に修行であるともされていました。これが修行と見なされていた理由としてあげておかねかばならないのは、ワークの、俗に「カルマ落とし」、あるいは「観念崩し」と言われていた側面です。

「カルマ」というのは、各人がそれまで経験し、自らの内に蓄積してきたものという意味で、観念という言葉も同じような意味ですから、わかりやすく言うならば、「各修行者がそれまでに培ってきた、悟りや解脱の妨げとなるけがれを取り除くこと」という意味になると思います。

私は次第に「指示に対する疑問は自己のけがれであり、疑問を持たずに指示を実行することこそ修行である」という考えを持つようになってゆきました。

●広瀬健一郎被告の意見陳述書より

タントラ・ヴァジラヤーナはすべての魂を最も早く最終解脱に至らせる道として説かれていました。ヴァジラヤーナの教えは、最も根本的な心を浄化、成熟させるために、救済のためなら十戒を犯すような、身体、口を汚す行為、例えば暴力で相手を傷つけること、殺すこと、奪うこと、ののしること、欺すこともするというものでした。
そしてその結果、その相手の持つ業、カルマを引き受けるということです。
相手にとってはカルマが解消される訳ですが、暴力を使った側にそのカルマが移り、そのカルマによる苦しみは修行によって解消しなければなりません。
村井の言った衆生のカルマを背負うというのは、そのような意味です。

(「オウム法廷 グルのしもべたち」降幡賢一著:286〜290頁)
posted by 黒崎 at 01:54 | TrackBack(0) | 夜話 | 更新情報をチェックする

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