2006年05月20日

カルマの果て 2

黒崎@カルマの果て 2

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20060519/1148000608
finalvent氏が私のことを、いわゆるプロのジャーナリストだと書いていた。
これまで何度も同じような指摘を受けてきたが、実はそうではないんですよ。
では何のプロかというと、スケソウダラの買い付け。
と、茶化してはいけない。それもやるんだけどね。

ネットの言論を、昼間の厄介、つまりは職業で語ることは、実は既に有効でなくなっているのではないか、という気分を私はずっと持っている。
プロかアマか。プロを目指すあれこれか。
ネットの、とりわけブログの面白いところは、プロの手の内が分かることであった。
例えば編集委員という社会的に相当な肩書きを持っていたとしても、その内実はIT記者であった。自分でそう書くに至った。
民主主義やジャーナリズムを語るには、あまりに層が薄かったのである。この場合の層とは、余分な知識や経験ということで、ひとつの言論が出てくるまでのプロセスに、迂回も逡巡も蓄積やためらいもなく、分かりやすい未来志向と現在の否定に基礎を置いていた。

終末論と進化論はパラレルである。
「より後れたもの、劣ったものが淘汰されて終末を迎え、新しい時代にはより優れたものが残って繁栄する」
これは、カリフォルニアのニューエイジ思想の系譜であるが、ここに魂の問題、精神世界の位相のあり方が入り込むと、カルトに近いものに容易に変容してゆく。


地方紙記者と名乗っていた、匿名ブログの言説も似たり寄ったりである。
扱っているテーマを除くと、これがプロの水準なのかと端的に驚く。文章も理論構成もである。組織というのは極めて旨くできていて、一度入った人間をある程度は庇ってくれているのだなという側面。加えて、ひとつの言説が世に出るまでにいくつもの編集のフィルターがかかっているのだなということに気がつく。編集権である。
彼個人が書いたものがそのまま載ったとしたら、恐らくは誰も読まないか対価を払うことはないだろう。
余技でやっていても、その質というのは滲んでいるものだからだ。
つまり(ブログを持つ)、プロのジャーナリストが、思ったほどプロではないという事実。
誰もがブログを持つようになって、それが反射的に明らかになってきたことだけは収穫だった。

また「ブログの言説のゆくえ」というものを語るのは、私には何処か不毛なことのように思えている。
「ブログ界」などという表現も同じである。
単にブログなりSNSなり、そこにある手軽なツールを使っているだけなのだ。
無料でできるということは、客寄せやその他に使われていることで、資本の大きな掌の中で遊んでいるだけなのさ、という視点があってもいいようには思える。何、ネットに限ったことではないが。
これが仮に、完全実名制が義務付けられたとしたら、使う人口は今の数パーセントにまで落ち込むだろう。

今あるもの、あるいは今持っているかたちのない立場や影響力などに、過剰な意味を付与するのは、なにものかに絡めとられる危険と裏腹であることに注意すべきではないかと思える。例えば、ブロガーがネットワーカーの代表のように扱われ、世論を誘導するための道具として保守政党に招かれた構造などを思い出せばいい。
そこに不透明な力が働いていたことは、今現在立証されつつある。

ネットと政治。ネットとカルトの問題は、これからも続く。
そこには経済的な側面も絡んでいて、事態は厄介なのだが、良識という社会からのブレーキがかかるかどうか。そのバランスが問われているように思える。

posted by 黒崎 at 20:31 | TrackBack(0) | 夜話 | 更新情報をチェックする

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