2006年05月12日

ドリームランド

黒崎@ドリームランド

泉氏のブログ、ジャーナリズムについて言えば、滝本弁護士へのインタビューを掲載した時がある種のピークであろうかと思っている。
あれが評価されるとすれば、ほぼ滝本氏の発言内容が濃いからであって、それ以外の理由は乏しい。実を言えばインタビュアーは誰でもよかった。

5月1日と言えば、連休入りかけ、前のインタビューのあまりの酷さに滝本先生も随分ご立腹の様子だった。
岩波から出ていた「オウムと破防法」のブックレットは、私も当時読んだ覚えがある。
破防法というのは天下の悪法で、人権派の弁護士や文化人がこぞって反対をした記憶があるが、あれから10年余。世の中はその文脈から言えば更に悪く、複雑にもなっている。

公安調査庁は法務省の中にある。
独自の捜査権を持たない。実際の事件の時も警視庁の公安部が陣頭指揮を行っていて、複数のジャーナリストから、情報を流すならば警視庁の方だよとのアドバイスを受けた。

世の中というのは不思議なもので、一定の事実が提示され、それが一塊の量になると質的な変換がおきる。そしてそれは不可逆なところがある。
分かりやすく言えば、例えば男女平等という概念は、雇用均等法の施行以後、様々に矛盾はあったとしても社会に定着し、例えば女性が上司であることがそう珍しくなくなって久しい。どう男達が夢想しても、昭和30年代40年代のBG(ビジネスガール)の段階には戻ってはゆかないのである。

一年前、例えばガ島通信は既存のマスコミに飽き飽きした人たちの中で、悩める良心の灯であった。彼が辞めざるを得ない今の新聞業界への憤りを、湯川氏が心情的にエントリーに揚げ、それを支持する声もまた高かった。
彼は、腐った業界の中で僅かに残った迷える良心的記者の立場を演じていたのである。
実際はそうではなかったのだが。
この辺りは真性引き篭り氏の「藤代裕之〜裸の駄々っ子」に詳しい。
http://sinseihikikomori.bblog.jp/category/fujisiro/

転職に際しては、R30氏が自らを振り返ったアドバイスを行う。
ガ島こと藤代氏が地方紙を辞め、日経のサイトで連載を持つ。
それを背景に新たな転職を試み、おそらくは単身で上京を果たす。
ブログは、彼にとって階級上昇と人脈作りのツールであった。
NTTレゾナンスに勤務して以後、例えば2005年の衆議院選挙の特集を組む。そこには泉あい氏も含まれていた。泉氏はそこで、ドメスチックバイオレンスが原因で離婚をしたと自らのプロフに書かれている。
湯川氏はその特集を自らのブログ・エントリーで誉める。
なんのことはない、同じ世界でぐるぐると廻していただけであった。
ライブドアが堀江被告を中心に、全盛期だった頃でもある。
オフ会が煩雑にくりかえされ、一部はSNSに代替されてゆく。ただ、公の場としてのブログは捨てさることもできない。
完全撤退をすれば自分がいなくなってしまうからである。

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「一年の後」という小説が、フランソワーズ・サガンにある。
かつての花園は見事に廃園になっている。
ガ島君を心情的に応援していたコメンター達は表だっては消えた。
泉氏のブログにその一部が流れてきていたようだったが、また客層が異なり、もうすこしプリミティブで情緒的である。
「下流社会」という本がベストセラーになったものの、考えてみるとネットというのは今の時代一番安い娯楽であるのかもしれない。
誰しも、自分のなりたいものになれる。
ジャーナリストと先に名乗った方が勝ちである。あるいはマーケティングとか。
実生活で、心ならずもあれこれのあった方々が、パソコン一台あるだけで不思議な夢を見ることができる世界でもあった。

離婚、性癖、病気。年齢的な制限などからの更新拒否。
現実の世界はとても辛い。ネットというのは自分のなりたいものに近づけるところでもあって、ドリームランド、仮面を被った遊園地にも似ている。
党首インタビューを果たした本人は、その後出会い系サイトでサクラのバイトをしていた。それを自らのエントリーで公開する。男達はそういうものにお金を払うのだという。ホステスの経験もあるけれども、すぐにセクハラをすると書く。メールレディのバイトも、すぐに携帯アドを教えろと男達はいうから嫌だと。こんどはWebカメラを使ってチャットレディをしてみたい。
「昼間は派遣でOL。夜はチャットレディで稼ぐっていう生活もいいかも」
http://gripblog.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_ad08.html

いつまでも夢をみていたい。ちやほやされていたい。私には夢があるから今こうしていることは仮の姿なのだとおもう。
それはそれ、全く構わないのであるが、緩やかに観客は飽きてゆく。
この程度であるならば、別の対象があるのではないかと廻りを捜し始める。
何故なら、書かれた文章そのものを読んでいるのではなく、その背後にある物語を追っているだけだからだ。
2.0と盛んに言われている概念の根にあるものは、決して新しいものではなく、新自由主義の時代におけるセルフ・ブランディングを表層的に語っていることが多い。
格差社会は確実に進行している。残された仮想平等の場所はネットだけであるのかも知れない。

おそらく、数ヶ月の後には今とは全く違う様相になっていると思える。
グレーならばグレーのまま、何一つはっきりとはせず、次にゆくのだろうとは思われる。ただ、ひとつの山場は確実に過ぎたという感触が薄く広がってもきている。
posted by 黒崎 at 20:24 | TrackBack(0) | 夜話 | 更新情報をチェックする

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