2006年04月28日

児戯に等しい

黒崎@児戯に等しい

standpoint1989さん、ありがとうございます。
「私はああいう心理を抜けてきたのです」ってのは決めの台詞ですね。
問題は、どうやって潜り抜けてきたのか。

話は飛びますが、酒場に入っていってスツールに座ると。
そこまでの流れが淀むことなく自然にできるようになると男も一人前である、という説があります。前からきていたみたいに、そこに居ると。
妙に声が大きくなったり、持っている小物、この場合は携帯でもなんでもいいですが、が身体からふわりと浮かんで見えるようであれば、まだまだ彼の身についていないという。
何が言いたいかというと、オクターブ高い言説のことを言っています。
観念的といいますか、知っている単語を全部並べているといいますか、つまり技だけが目立ってしまう訳です。

今回のR30氏の言説と「趣味だから」というポーズは、ある程度経験を積んだ大人から眺めると、しゃらくさいものにみえてしまう。随分背伸びをしているようにもおもえる。
ともかく知っていることを全部並べないと気がすまない。俺って賢いだろうと誰にともなく言いたくて仕方がない。
こういうのは「児戯」に等しい。

それに憧れる方もいるでしょう。若いときは誰しも観念的ではないですか。
「ひとつの論理のみに自ら拘束され、苦しみの声が耳に入らない、きこえない」
聞こえないのは自分の声であったり姿でもあるんですね。

忸怩たる思いをされているstandpointさんには悪いですが、例えば湯川氏に対しての質問。あれが出てきた時、これはひとつの物語をつくってくるだろうな、という予感はありました。そしてその通りになったのですが、緻密に組み立てれば立てるほど、思いもかけぬ方向からきた質問にうろたえ、そして最もシンプルな事実で前提が崩れてゆきます。
その後はどうにもならない。
つまり、現実は野蛮なところがある。ということだと思います。
野蛮さというのは、突き詰めてゆくと現実での存在のかたちです。
あるいはその蓄積でしょう。
この後長いので、拙ブログ(うー、笑)で続けます。


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例えば、昔水商売をしていたという。
SMサイトを作っていたりもする。別にそれは悪いことではないですが、顔とか身体、あるいは声にしても、その文章のどこかに、そうした蓄積というのは滲み出ているものだと思えます。昨日今日、それを直そうとしても仕方がない。例文集のような、杓子定規なものになってゆく。
上品になりたがっているある種の品のなさ。とでも言えばいいのかしら。
金がなくなって取材ができなくなったことを、何故ブログで書かねばならないのか。
バイトしなよ。という声が出ても当然なのですが、それを誰も言わない。
出会い系サイトのサクラをしていた。こんどはチャットレディをやろうと思う。
別にやったっていいんですが、騙される男はつらいものがある。それはないだろうという気にもなる。
つまりね、水商売としてもサクラとしても、プロではないんですね。

本来であると、こうした個性は世の中の表舞台に出ることはできなかったものです。
それが、例えば2000年頃のネットバブルから、あるいは昨今のブログブームに乗じて、一躍ネットの上で踊り始める。その反動。
物事には多面性がありますので、それを経て次の段階に進むということは考えられる。
ブームの中から、ひとりふたり本物の方は出てくるかもしれません。
が、少なくとも今話題になっている方々ではない。
自分の今の状態を、あたかも成功物語の中に位置づけ、不自然に自己評価が高かったり低かったりする方々ではないような気がします。



掲載予定:相手先blog エラーのため未投稿
http://ultrabigban.cocolog-nifty.com/ultra/2006/04/gripblog_2b25.html#comments
posted by 黒崎 at 18:51 | TrackBack(0) | 夜話 | 更新情報をチェックする

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