黒崎@道具とその弟子
最近、ということもないが、ブログ界とかブロゴスフィアという言葉にうんざりしていた。
エセ文壇ごっこ。あるいはサロンごっこのようにも見えなくもない。
例えば新聞の社説を並べ、やや引いた立場からコメントをつける。
それによって、ある種の知の形が網羅できるとする手法もあるが、畢竟これは高等床屋談義であるのだと、ご本人も自覚されているかのようである。
批評する人生。
それによってナニをしたいかというと、それもすぐには見えてはこない。
何がしたい訳でもない。俺はここにいる。
ということを、今の技術を使って日々確認しているだけかも知れない。
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一般に、表現というのはすべからくシステムに依存している。
例えば、今横書きで文章を書いているが、これを縦に組んだらどうなるのか。
また、紙であったらどうなのか。
簡単に言えば、文体や文章そのものの構造すら変わってくる。
重層的にうねるような文章というのは、例えばネットでは最後まで読むことができず、
頭と終わりだけを斜め読みにされてゆく。
それは速度なのだが、これには勿論功罪もあるだろう。
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ある特定のフォーマットに慣れると、それがデフォルトだと勘違いしてしまう。
Movable TypeであれSNSであれ、あるいは特定のシステムの上に乗ったブックマークやその他であれ、新しい機能が便利だということになれば、それが付いていなければ不安にも思う。
新しい携帯を買った若者のようである。400万画素ついているからどうよ。
どうってことはないのであって、今の時代、何処にでも写真はある。