黒崎@高い空
忙しいのであるが、ひとつ書いてみる。
前に私は、ゲッベルスについての中公新書をここでとりあげた。
「歪んだモダニスト」とも言い、また、出来損ないの文士、であるともその本には評されている。
この辺り、鮫のヤローに書いてもらうといいのだが、例えば自分がライターであることにおかしな自負を持っている方というのがいる。
本来のプロ意識ではなく、致し方なく黒子になっているというような、自らの屈折がきちんと処理されていない方々である。
ネットというのは文章の世界であるから、そこでバトルをするとそういう方々に遭遇する機会は多い。
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ただ、経験的に言うのだが、ある種の劣等感をベースにした論陣、あるいは存在の在り方が異彩を放つのは、概ね40歳までである。
40になったら、何か別のものになっていなければならない。
体力的に言っても、数日の徹夜が可能なのは30代後半までで、そこから先は違うやり方になってゆく。
つまり、才能などというものは誰しも持っていて、毎年数万人ものレベルで生産されていて、そして消えてゆく代物でしかないのだ。
30代で不良を気取ることは簡単である。
が、40を過ぎてそれを続けることは、一方で愚かでもある。
片足をある種定番の世界に突っ込んでおかざるを得ず、そこではバランスが問われている。
定番の世界、というと誤解を生じるが、例えば虎ノ門のホテルの上にある食堂と、その途中の立ち食い蕎麦での素うどんとが、間断なく移行できる、同じ平面で語れるかどうかということだろうか。
素うどんを食っていても颯爽として、またはホテルの上で「これ包んでください」と言えるかどうか。
だからどうしたということもないが、世間は広いんだよということを言いたい。
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本来での意味でのプロに至らない、屈折したライター諸氏とのバトルは不毛である。
彼らは常に上目使いに眺め、他人の財布を覗こうとする。
本が出たことを喜び、名刺代わりに使い、それはそれでいいのだが、勤め人の癖にそれ以外のものになりたがろうとする。リスクを負わずして。
あるいは、同期が教授になり部長になってゆくことをねたんでゆく。
それは当たり前のことだが、高い空があることを忘れる。
社会というのは不思議なもので、理屈や偏差値だけでどうにかなるものでもなく、例えば飯の喰い方ひとつで評価されたりされなかったりするものだろう。
例えば酒の飲み方だ。金の払い方であったりする。
40というのは、男にとってひとつの転機であった。
これは黒崎の世代であるから、今はもう少し早いかも知れない。
その手前、じたばたを繰り返してきたのだが、男にも女にも、その時にとても世話になって、そのお返しは未だできていない。