黒崎@続く訴訟メソッド
夜の空気は密度を含んでいる。
いずれ雨になるのだろうが、満ちるのを待っているかのようでもある。
いずれにしても、本件、「私個人にとっては」緩やかに収束に向かっているように思える。
黒崎の実名の居在地に、ume氏並びにその法定代理人から、訴状や内容証明などの送付があるかと思っていたが、現在までのところ到着していない。
あるいは未公開設定のコメント欄に、法定代理人つまりは弁護士からの書き込みがあるかと半ば期待もしていたが、それもされていない。
が、断念したかといえばそうでもなく、泉氏のサイトにはそのエントリーもコメントも残されているのだから、いまだ恫喝継続中であるともいえる。
いずれにしても、この発言が問題だとの具体的指摘をすることもできず、訴訟その他をするから個人情報を教えろというやり方は、ネットの世界でも滅多にない椿事であった。
しかもそれは、オウム真理教との関係・スタンスが問われている事案についてである。
いまだ総括をするには早いので、全体の論評は控えよう。
ふりかえっての個々への感想も、その段階ではなさそうである。
湯川氏、R30氏、佐々木氏。ガ島氏、小飼氏なども遠景に霞んでいる。
踊らされた新聞屋という自称地方紙記者もいた。所属やその他が匿名であるから自称であろう。彼は黒崎にume氏に名乗り出るべきだと明言していたが、オウムという特殊性については一切勘案していなかった。
彼らの立場や考え方がこの数ヶ月でどう微妙に推移してきたのかを考えると、なかなか興味深いものがある。よく名前の出ていたコメンター複数人もである。
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時事通信湯川氏との関係は、例えば坂本弁護士事件の際のTBS問題を何処かしら想起させた。規模も程度も全く違うものだけれども。
TBS問題というのは、坂本堤弁護士一家殺害事件の直前に、弁護士へのインタビュービデオをオウム側に見せたかどうかの問題である。
それまで一貫して「見せていない」としていたTBSが、早川被告の第四回公判直前に緊急記者会見を開き、一転して未放映ビデオを「見せた」とする。
ビデオを見せたのはオウムから訴えられるとまずいと判断したTBS関係者側の発案だったこと。またオウム側の激しい反応をみて、TBS側が折れる形で放送を中止していたことが検事供述調書で明らかになっている。
この時に「放送したら告訴します」と言ったのが青山弁護士(当時)である。早川被告。そして上祐もいた。これは1989年11月8日。
当時からオウムはすぐに相手を訴えるので有名であった。この推移は世間から激しい批判を浴びる。取材倫理の問題だけではなく、弁護士失踪にそのトラブルが関係していることを捜査当局が知っていれば、坂本弁護士一家失踪事件は全く違う展開を見せていただろうと、多くの国民が考えたからである。
本件は、認可事業である放送界への政治からの風圧を強め、TBS幹部への責任問題へと発展した。
磯崎洋三社長は社内処分を行うと共に1996年5月1日で辞任している。
トラブル発生から7年後であることに注意していただきたい。
私は彼に、TBS問題について書いたメールを出している。
そういうこともあったのだから、注意していただきたいという趣旨でである。
それに対しては返答はなく、その後、あの物語の弁明と総括が始まり、途中富士通スポンサーロゴが外れて現在に至る。
具体的な経緯については、本サイトの過去ログを遡っていただきたい。
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ただ、一般に。
たまたま黒崎に社会的な対抗措置、または、こうしたらこうするなどという予防措置が取れたから良かったようなものの、通常の方々ではこうはゆかないものである。
実際黒崎は、家族を念のため暫く実家に戻している。
自宅のあるところは24時間警備員が常駐しているが、その管理会社に防犯ビデオの閲覧を依頼したりした。
通勤、いわゆる仕事の際には、なるべく電車を使わず、また武器マニアである某電力会社勤務の友人からスタンガンを借りて鞄の中に入れていた週もある。
外出も控えた。
具体的に、オウムの実行部隊がやってきたことを調べれば調べるだけ、なんてこったいの世界なのである。
例えば、前述坂本堤弁護士一家殺害事件の検察側冒頭陳述では、殺されようとするとき
妻の都子さんが「子どもだけはお願い」と懸命に声を上げた、という一節がある。
中川被告は一歳二ヶ月の長男龍彦ちゃんを手にかけている。
その辺りの記録を読んだとき、私はかなり胸が詰まった。家族に万が一のことがあったら、さてどうするか。
ここから先はほとんど小説の世界になってしまう。
が、現実に想定しておかねばならない可能性のひとつだったのである。
まさかね、という方はオウムの有力信者並びにその親しい友人に、自らの個人情報を晒してから言っていただきたい。規模は小さくなったとはいえ、11年前までオウムは実際にそのようなことを行ってきたことは事実なのである。
さて、あなたの身にそれがふりかかったら、果たしてどうするだろう。
どう対応できるだろう。
これに付随して、泉氏のサイトでかつて建設的な意見を述べられていた方がこのように発言している。同意できるところもあった。
http://madammizushima.seesaa.net/article/18624086.html私は、本訴訟メソッドとその流れというのは極めて悪質なものだと考えている。ジャーナリズムを名乗るのはちゃんちゃらおかしく、ある種
言論の否定であったようにも思える。
自分のサイトのコメント欄を操作しても、他の方々がまとめサイトをいくつか作成しているので、ネット上には記録が残っている。今後充実してゆくものだろうが、これはじわじわと効果を発揮するものだろう。
十分な裏づけを取らず、それに乗ったIT記者は愚かであるが、何度も酒を飲んだ仲であったことが苦い後味を残した。こんど出るという本の中に総論的な原稿を書いてくれと頼まれ、銀座裏と日本橋を梯子したのは、堀江被告が逮捕された夜であった。
鮫島氏も途中から参加した。
また、昨年秋近かったろうか、彼が私の元を来訪し、近くのホテルのラウンジで今後の展開についての相談を受けたことも覚えている。
家族のこと、自分の生きてきた道のこと。社会的な評価と実像との乖離。
チャンドラーの小説には、礼儀正しい酔っ払いというのが出てくるが、その物語もまた、友情に似たものが壊れてゆく過程を描いたものだった。
今回、そう魅力的な相手方ではないのだが。
それに対する社会的な制裁、影響はある面では受けたと言ってもいい。
彼は「参加型ジャーナリズム」なる単語を、二度とネット上で口にすることはできなくなってしまった。口にすれば失笑を買う。
ジャーナリズムを語ることを半ば諦め、こんどは広報の分野に触手を伸ばす。
誰かが書いていたが、失策を回復し組織の中で立場を維持するには、なんとしてもそのイベントを成功させる必要がある。ブログ上での対談が、このようにビジネスに繋がるという実例を作らねばならない。
世は商売。がんばっていただきたいものだが、個人の金で出向くような内容かどうかは、今のところ判断がつかない。おそらくITの現場からはまた違う声も出るものだろう。
一般的に、自らが中心になって大きなイベントやセミナーを立ち上げる人たちというのがITの世界には多くいる。研究会もしかりである。大きな新聞社も2000年の頃には何度かセミナーを開いている。当時のPC系やビジネス系の雑誌を眺めていると、知った顔が何人もいるのだが、その多くは現在その組織には留まっていない。
次のステップがあったのかどうか、それすら不明になっていることも何度かあった。